娯楽の哲学化
娯楽の哲学化とは、元々は娯楽として楽しまれていた物事が高度に発達することで、新参が参加しにくくなる現象のことである。
概要
元々は単純に「楽しみ」として誕生し、娯楽として楽しまれてきた物事が、長く続くことで参加者の知識も増えて技術も上がる。すると、それまでには作ることができなかったものを作ることができるようになるが、次第に体系化が進み、難易度が上がる場合がある。そうなると、新参の参入が難しくなり、コミュニティの縮小やその娯楽自体の衰退に繋がったり、あるいは「変人集団」のような扱いを受けたりするようになる。
簡略化して書くと、以下のようになる。
- 面白いと思った人が始める
- 技術が上がる
- 高度に体系化され、難易度が上がる
- 新参の参入が難しくなる
この事象は数学・芸術・コンピューターゲームなど様々なものに当てはまる。
サッカーも昔はただボールを蹴るのが楽しいそれだけであったのであろう。しかし参加者が増えて技術が上がり、数世紀を経た現在では世界的なプロスポーツとなっている、というのもその1つであろう。
鳥人間コンテストにおける発生
鳥人間コンテストは、かつては単純に「飛ぶ」を楽しんだり、「すぐに落ちる」をネタとして楽しむという雰囲気が強かった(現在もロシア版鳥人間コンテストはそのような雰囲気であると言われている)が、技術を持った参加者が増えると、次第に飛行距離を本気で競う競技と化していった。結果、技術力や資金力を持ったチームでなければ参加できないという状況になっているといえる。
架空世界創作における発生
架空言語界隈でもこのような現象が発生しており、架空言語作者たちは独特なコミュニティを作り上げている。
そもそも架空言語や架空地図をはじめとする架空世界創作は、その特性上、「架空の世界」「架空の言語」という体系を作り上げることを主旨とした趣味である。また、個人あるいは少人数の集団によって作られることが多いため、高度に体系化されて難易度が上がるという現象は容易に発生する。また、その少人数集団の中でのみ通じる独特な文化が形成されることも珍しくない。その結果、人からは理解されにくいものとなる場合がある。
これは、架空創作界隈自体が新参の参入が難しいという意味でもあるし、創作された架空世界自体が「複雑かつ広大」なため理解に時間ががかるという意味も含む。
垰瀬内シリーズにおける発生
垰瀬内シリーズは、主に地名・駅名・選手名などを並べ合わせて、原曲の歌詞らしく聞こえるようにした替え歌であり、元は「単に地名(駅名・選手名)だけで歌っているのに原曲を歌っているように聞こえることが楽しい」という動機で始まったものと考えられる。しかし、「重複ゼロ」、「全県制覇」、果ては「全県複数周制覇」などの縛りを課した替え歌が登場したことで、より難易度の高い縛りで替え歌ができるかという技術競争が始まった。また、作者間で「○○という歌詞は××という駅名を使う」などのテンプレ知識が多数共有されるようになった。その結果、そのような知識を持たないものが新規参入することが難しくなってしまった。
ただし、最近は日本駅名語辞典の登場により、新参者でも完成度の高い作品を作るための環境の整備も進みつつある。
ウィキにおける発生
ウィキペディアやアンサイクロペディアなどのウィキ界隈でも、「誰もが編集できる」とうたいながら、実際には少数の古参編集者が活動の中心を担い、新規利用者が参入しにくくなる事態が生じている。これは、執筆技術の向上による淘汰圧の増加に加え、長期荒らし(LTA)への対抗などの観点からの方針の肥大化・難解化や古参利用者の権威化が進んだためだと考えられる。
このような問題を克服するべく立てられた、所謂過疎ウィキの場合も、(運よく人が集まったとしても[1])多かれ少なかれ、似たような経緯をたどる傾向がみられる[2]。
Tanukipedia自身も、架空世界創作を目的としたウィキであることも相まって、かなり特殊なコミュニティとなっているので、例外ではなさそうである。
脚注
- ↑ そもそも人が集まらない場合が殆どなのであるが…。
- ↑ 緩さを掲げつつも「ウィキペディア化」が叫ばれて久しいエンペディアや、専門化したアンサイクロペディアの編集者を「ユーモア研究生」と称しながら、自らも「アンサイクロペディア化」しつつあるウソペディアなど。
関連項目
外部リンク
- 電磁気学は間違っていた、は間違っていた - 小人さんの妄想
- (3) 学者は互いにつるんでイビツな世界を作り上げている - このような現象の事例としてシューティングゲームが挙げられている